Yurika Kodama Official blog

広島県出身、東京藝術大学大学院博士課程卒。ソプラノの小玉友里花のブログです。日々の出来事やオペラや歌曲など音楽についてのあれこれ、演奏会情報などを更新しています。

人間とは何かを知るために

Instagram・Facebook・X等各プラットホームでご案内させていただいていました新作オペラ《人間の歌》ですが、いよいよ本番が迫り、稽古も気づけばあれよあれよという間に終盤に差し掛かってきました。

 

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f:id:kodamayurika:20260623174216j:image(稽古風景写真をプチ公開♩)f:id:kodamayurika:20260623174340j:image



今日は、このオペラ《人間の歌》について少しお話ししたいと思います。

新作ということもあり、オペラの内容を予習ができない分、私自身の頭の整理のためのブログが一助となればと思って執筆しています。

いやいや、ネタバレなんて嫌!という方は、どうぞここでUターンしていただき、劇場でお会い致しましょう!観終わったらぜひ読みにいらしてください♩

 

あれこれを語る前に、先にざっくりとしたあらすじをお伝えすると、おおよそこのような感じです。

 

文明が滅び、汚染された海と廃墟だけが残る世界。不思議な少年Üは、捨てられていたアンドロイドを目覚めさせ、「人間とは何か」を知るため、ともに旅に出る。道中、二人は奪うことで生きる野盗と出会い、彼に教えられた共同体「楽園」へ向かう。Üが汚染された水を浄化すると、人々はその力を奇跡として崇め始める。一方、野盗は、かつて自らが傷つけたファーザーの娘に許しを求め、彼女のために集めた機械の身体を差し出す。しかし、人として生きることを願う娘はそれを拒み、逆上した野盗は再び彼女を傷つけてしまう。楽園では、支配者ファーザーの教えが狂信へと変わり、人々は身体や命まで捧げようとする。Üはその答えを拒み、瀕死の野盗を救い出す。やがて初めて涙を流したÜに、ドロイドは人間の残した歌を聴かせる――「なみだは、にんげんのつくることのできる、一ばんちいさな海です」と。

 

ストーリーを考えられたのは詩家・鶏 kei さんです。→鶏(Kei)|note

この「オペラのまど」のプロダクションがオペラのストーリーを募集し、このような奥深くて素敵な物語が選ばれたとのことです。 
そして、オペラの台本化は角 直之さんが手がけられました。
そこへさらに前田佳世子先生の音楽と、演出・岩田達宗さん、指揮・濱田芳通さん、豊かな演者たちと素晴らしいスタッフの方が少数精鋭で揃い、今日まで辿りつきました。

そう多くないオペラ経験ではありますが、そんな中でも、0から1を生み出していくような形で作られるオペラに関わらせていただけるなんて、なかなか体験出来ることではありませんし、役をいただけたことは光栄なことだと感じています。


「娘」という役から見る新作オペラ《人間の歌》について


さて、私が演じる「娘」は、共同体「楽園」を統率するファーザー(大澤 恒夫さん)の娘です。父の強い支配下に置かれ、自分の身体や人生のあり方を自分で決めることができません。

「楽園」では、「与えよ、さらば与えられん」という教えが繰り返し歌われます。しかし、そこでの「与えること」は、やがて相手の意思を無視した犠牲や支配へと変わっていきます。
一見すると助け合いのための教えのようですが、実際のところは、「与えなければ生きる資格はない」という強迫的な教えが「楽園」の根幹に存在しています。

「娘」もまた、その支配に飲まれ、自己決定権を奪われて生きている1人として存在しています。身体の一部を差し出して、機械化している身体を持ち、教団のシンボルとして存在しているのです。おそらくファーザーからすると、「自分の教えの正しさを示す道具」であり、「共同体の苦難を体現するシンボルとしての存在」あるいは、「体を失っても救われるということを示す存在」等なのだろうと思います。


余談ですが、私がこの「娘」役を頂いて台本を読んだ際、2024年に出版された小説《ここはすべての夜明けまえ》(間宮改衣著)を思い出しました。この小説では、父親の偏愛を受ける主人公は、父親の意思で不死の身になる融合手術(体の大部分を機械化させる)を受けて、人ではない何者かになります。性格であったり、身の上は違いますが、お読みになったことがある方なら、今回の「娘」の未来的な設定であったり身体的なイメージがつきやすくなるかと思います。(正直、この公演に関わらず、読んだことがない方も、ものすごくおすすめの小説なので、是非読んでもらいたいなと布教の意味で思います。それくらい私の中で近年読んだベスト本です。)


話を戻します。
彼女が歌うアリアでは、「この手、この頬、この涙。どこまでが私なの?」や「この眼、この胸、この体。どこからが私ではないの?」という台詞が出てきます。これは身体の一部が機械であることを意味する言葉のみならず、自分の身体でありながら、自分の意思では守れない。自分の人生でありながら、自分で選ぶことができない。どこまでが自分自身で、どこからが父や共同体によって奪われているのか。その切実な問いなのだと思います。


そんな娘が、激しい感情をぶつけることのできる唯一の相手が、かつて愛した野盗(小森輝彦さん)です。

野盗は、過去に娘を深く傷つけた相手でありながら、彼女が今も愛情を捨てきれずにいる相手でもあります。父や共同体の人々には言えない怒りや悲しみを、娘は野盗の前で初めて声にして言える相手です。

野盗は娘のために、長い年月をかけて機械の部品を集めてきましたが、娘が望んだものではありませんでした。彼は娘を思っているつもりで、娘自身の言葉を聞いてはいません。自分の愛や後悔を「娘のため」という形で差し出しているだけです。娘が求めていたのは、新しい身体ではなく、今と違う未来や希望といった別の次元のものでした。

自分の苦しみを理解してほしい。自分の意思を、一人の人間の言葉として受け止めてほしい。その願いが届かないと知ったとき、娘は野盗を「人でなし」と激しく罵ります。


鬼才・岩田達宗さんの演出では、この言葉は、ただ怒りに任せて放たれるものではありません。娘は自分の感情をぶつけて野盗を激昂させることで自らの命を破滅へと向かわせます。父の支配から逃れる道を失い、自分で命を終えることもできない娘は、野盗に自分の最後を託そうとするのです。

それは暴力を望んでいるということではなく、生き方を選べなかった娘が、せめて「愛する人の手によって死ぬ」という終わり方だけでも自分で選ぼうとする、あまりにも悲しい自己決定だと私は思います。

野盗もまた娘を愛しながら、娘の拒絶を受け止めることができません。二人は互いを思っているのに、互いの苦しみを理解できないまま傷つけ合うのです。


自分の身体を自分のものとして生きたい。
何を受け入れ、何を拒むのかを自分で決めたい。
誰かの所有物やシンボルとしての存在ではなく、一人の人間として扱われたい。

私はこの「娘」を、ただ傷つけられる悲劇的な人物としてではなく、最後まで自分の感情を叫び、自分の尊厳を取り戻そうとした女性として演じたいと思っています。

 

Üとドロイドが見つけた「人間らしさ」とは

さて、この物語での重要な存在は、そんな「娘」を含む「人間」たちを知りたいとやってくるÜと、人間が作ったアンドロイドのドロイドの2人です。

台本を頂いた時から、自分の役以上にとりわけこの役柄達はいったいどういう存在なのだろう、ととても興味をそそられていました。

稽古が進む中で、私なりに理解できたこの二者についてもお話ししたいと思います。

 

「人間とは何か」を知ろうと旅をするÜと、その旅に付き添うドロイド。二人が最初に深く関わる人間は、奪うことでしか生きられない野盗でした。

野盗は人間を「おぞましき獣」と語り、ドロイドは「美しき生き物」だと信じています。相反した人間に対する心象に、Üはまだ人間がどのような存在かを理解できません。

その後、二人は「楽園」を訪れて、求められるままに水を浄化すると、人々はその力を"奇跡”と崇めながらも、「水を生み出す手段」としてÜの存在を捉え、Üの体がどうなろうとも気にもせずに、渇望のままに狂喜乱舞します。
そして先ほど語った娘と野盗の対峙の場面の末、娘を再び傷つけた野盗が共同体の教義における正しさの名のもとに「楽園」の人々の手によって犠牲となり、Üは自らの力を使い果たしてまでも野盗を助けます。


終幕では、「涙」が人間か否かの境界を越えて受け継がれていきます。

助けられた野盗は「畜生」と自らを憎みながらも涙を流し、人間ではないÜもまた涙を知ります。さらに機械であるドロイドさえも涙し、最後には人間の子供が、主人を失ったことで活動を終え、消えゆくドロイドを悼み弔います。


この作品における「人間らしさ」は、正しく善良に生きるという単純なことだけではありません。

オペラの台本を書かれた角 直之さんはこのように仰っています。

この物語は「人間」をひとつの完成された姿として描くのではなく、揺らぎ続ける存在として見つめています 。誰かを拒絶しながら、誰かを求める。何かを奪いながら、何かを与えようとする。その不完全さの中に、人間が人間である理由が存在するように思います 。


私たちはつい、「人間」という言葉において、理想的な行いを"人間らしさ"と捉えたり、それだけでなく、身体の形や生物学的な分類によって人間を定義して捉えようとします。しかし、《人間の歌》が問いかけるのは、そうした理想的な人間像や分類としての「人間」ではなく、他者との関わりの中に現れる「人間らしさ」なのだと思います。

作中では、人間の姿をした者たちが、他者を利用し、犠牲を強い、傷つけていきます。その一方で、生物としては人間ではないÜや、機械として造られたドロイドが、誰かを思い、その痛みに寄り添おうとします。

ドロイドは危険からÜを守り、力を使いすぎるÜを案じ、集団の狂乱を前に「こんなことは間違っています」と声を上げます。そしてÜもまた、「その答えは間違っている」と言い切り、人々が奇跡として崇める水を自らの手で流します。

人間であるかどうかは、どのような身体を持ち、何に分類される存在かだけでは決まらず、他者とどう向き合い、何を選び、どのように行動するのか。私は、人間ではない二人の姿を通して、かえって「人間」の本質が照らし出されていくところに、この物語の深さがあるように感じています。


物語の終盤では、Üとドロイドは、「人間らしさ」や「涙」の意味を、言葉や知識ではなく、自らの体験を通して理解します。そしてその末に、二人はこの世界から消えていくのです。

二人の存在は消えていくけれど、二人の間に生まれた思いは、涙となり、歌となり、残された者へと、あるいは記憶へと受け渡されていき幕となります。


「なみだは

にんげんのつくることのできる

一ばんちいさな海です」


この寺山修司さんの世にも美しい詩が、ドロイド(澤原 行正さん)とÜ(石田 滉さん)の美しい歌声で紡がれる時、二人が探し続けた「人間とは何か」という問いへの答えが、舞台をご覧になる皆様の中にも、静かに浮かび上がるのではないかと期待しています。


是非、この《人間の歌》を目撃しにいらしてください。新しく紡がれた物語と音楽と、そこにかける舞台人達の気骨、情熱、エネルギーを間近に体感して頂けますと嬉しいです。

劇場でお待ちしております。

 


小玉友里花

ほんとうのたべもの

こんにちは。

Instagramfacebookで宣伝しておりました熊谷でのオペラ×第九コンサートは、無事に(?)昨日終演致しました。

素晴らしい共演者の皆様とご一緒させていただき、幸せな時間でした。

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第一部はオペラガラコンサート、第二部は第九という構成で、私は元々第九のソロを担当しておりましたが、前半のプログラムも代理で歌うことになり急遽オペラ作品を2曲披露させていただきました。温かなお客様に恵まれて、拍手を頂けてホッとしています。練習はほぼ無しなので、色々と荒い演奏にはなってしまいましたが、自分のレパートリー開拓の良い機会になって嬉しかったです。

第九ソロの方は人生で3回目で、以前からだいぶブランクがあったので、懐かしがりながら1から譜読みを行ったのですが、以前にはない音楽的な気付きもあって、学びを止めなければまだまだ新たな視点が芽生えてるものだなと嬉しく思いました。

関係者の皆様、そして足をお運び頂きました方々には、本当に感謝を申し上げます。

 

さて、オペラ《注文の多い料理店》の稽古もいよいよ佳境に入って参りました。前回は宮沢賢治について、個人的な気持ちを語ってみましたが、今回はオペラ《注文の多い料理店》についてお話しさせてください。


この作品の面白いところは、やはり原作『注文の多い料理店』との違いにあると思います。

というのも、オペラの台本となっているのは詩人の宗左近さんが宮沢賢治の『注文の多い料理店』のオペレッタ化をする依頼を受けて書いた台本で、その際に、物語の軸を大切にしながらも舞台化のための肉付けとして、そしてより賢治の思いを伝えたいという思いから、新たな役やセリフなどを加えたのです。

私の演じる役は「白い犬」と「コロス」という役ですが、白い犬は原作ではほんの数行のところで泡を吹いて死んでしまうので、特にセリフなどは無い役です。(その後に紳士を助けるために生き返り山猫に吠えかかるシーンはありますが。)ですが、台本では犬にもセリフが与えられていて、山猫との関係性も描かれています。

コロスという役は宗左近さんのオリジナルの役です。このコロスは物語の案内人となって、山猫たちの潜む山猫軒へと紳士を誘っていきます。そして、紳士達がシワクチャ顔となり生き延びることになった後にも、紳士を諭す存在ともなります。


一番重要な視点は、この「白い犬」と「コロス」が一人二役であることです。別々のアイデンティティのようでいて、表裏一体となっている。そこにもひとつメッセージを感じ取ってもらえると嬉しく思います。


作曲家の前田佳世子さんの音楽は、キャラクターごとにモティーフがはっきりとしていて、独特な音運びをするので、演じていく中で少しずつ合点がいくことが多いです。一度点と点が線で繋がると、キャラクターの心情や性格などの機微のメリハリをつけやすくなって、歌うほどに面白くなってきます。噛むほど味がするタイプの音楽で、演奏家としてはとても面白いです!

そんなジワジワと凄みを見せる音楽に、つねに深く熱く作品のイマジネーションを高める演出家の岩田達宗さんの奇才ぶりが相まって、今、お稽古現場はすごくホットです!!

さらには、指揮の濱田芳通さんの湧き上がる音楽的な感性や、発音指導の小森輝彦さんの論理的で無駄のない歌唱発音法のご指摘などで、現場は目まぐるしい情報量が飛び交っていて、ついていくのに必死なくらいです。

こんなに凄いことになっているから、是非沢山の方に見てもらいたい!!とすごく思っています。

 

特に未来ある子供たちに、宮沢賢治の思い、宗左近の思いが伝わると嬉しいので、お子様のおられるご家庭にこそ、お出かけの一案にして貰えると嬉しいです。(大人1人につき、4歳から中学生以下のお子様1人無料という企画です!)

チケットはまだございます。

是非お声かげくださいますと嬉しいです。

私は20日出演ですが、2日公演のどちらにいらしてくださっても構いません!出演者一同、心を込めて作っている舞台ですので、きっと楽しんでいただけると思っています!!!

 

 

最後に私の大好きな宮沢賢治の原作『注文の多い料理店』の序文を、前回に引き続きここで引用させて頂きます

 


注文の多い料理店』序


わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。

またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。

わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。

これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。

ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。

ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。

けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。


大正十二年 十二月二十日

宮沢賢治

 

 

賢治の言うような、地位や名誉や贅沢なもの(= 氷砂糖)よりも、「すきとおったほんとうのたべもの」を見つめられる、そんな素敵な時間になるよう、精一杯演じたいと思います。

 

4月20日東大和市ハミングホールにてお待ちしています。

 

小玉友里花

宮沢賢治とわたし

こんにちは。いつの間にやら四月となり、至る所で桜が見頃を迎えていますね。

私は、前回ご案内したオペラ《注文の多い料理店》の稽古の日々で、あれよあれよという間に立ち稽古が始まって奮闘の日々です。 まだゆっくりとお花見を出来ておらず...気持ちだけでも春気分になれる昨年の葉桜の写真を載せておきます。


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今回、宮沢賢治の作品に携われるということで、今日は私にとっての宮沢賢治について勝手気ままに語っていこうと思います。

オペラについて、ではなくて、あくまで個人的な宮沢賢治への想いみたいな記事です。

ご興味のある方のみ、お読み頂けますと幸いです。

 

さて、宮沢賢治の作品は、教科書などで小さな時から親しむ機会もありますし、独特な世界観を持つ作家なので、お好きな人も多いと思います。

かくいう私も、以前から好きな作家の1人が、宮沢賢治なのです。

 

私にとって宮沢賢治が身近になったのは、そんなに幼い頃ではなくて、20歳の大学生の頃、高校時代の親友が《銀河鉄道の夜》の演劇でジョバンニ役を演じると言うので、物語はぼんやり知っているものの前知識もそんなに無いままに見に行ったんです。

その親友は、私がこれまで出会った誰よりも演技力も表現力もずば抜けていると思う人なのですが、その日の公演では、一つ一つの呼吸や台詞が血が通った役として強烈なインパクトを持っていて、「言葉の力」を感じる凄まじいものだったのです。当時の私と同じ20歳の彼女の演技は、予定調和の演技などではなく、作品世界を生きてる生身の人間を見ているような気分にさせられたのです。《銀河鉄道の夜》は、そもそもが幻想的なお話ですし、設定としては、物語や登場人物もリアリティは薄いとも言えるものなのに、それでも真に迫るものを感じたのです。そして、ご存知の通り《銀河鉄道の夜》は親しい友との死別を描いた作品ですから、役者が表現に費やすエネルギーも相当なものでしょうし、どうやってメンタリティと表現のバランスを上手に取りながら台詞を伝えるのか、当時の私にはまだ理解ができませんでした。

しばらくは(おそらく1ヶ月ほどは)、その世界から私の脳は抜け出せなかったと記憶しています。

私がその数年後、実際にプロとしてオペラデビューをして、本格的に演技をするようになってますますこの「役が今そこで生きているかのような血の通った演技」というものの難しさと奥深さを思い知りました。

演技の本質を考える時、いつも脳裏に浮かぶのがこの彼女のジョバンニの名演なのです。

 

そんな出会い方をした宮沢賢治の作品に興味を持たないというのは無理な話で、そこから童話作品だけでなく詩や宮沢賢治本人の生涯について書かれた本などを読むようになりました。

そして驚くことに、宮沢賢治の童話と詩は全く違う表情をしていて、だけれども、どちらも共通して何度読んでも「よくわからない」という感覚を覚える言葉選びが存在するのです。

この「わからない」と思う部分を何とか解消したいけれど、勝手にこじつけで納得をするだけでは本当の宮沢賢治はどういう思いで書いたのか、本質のところを掴めないままというのが何だか喉奥に棘が刺さったような違和感がありました。その度に私は、宮沢賢治という人は少し異質の人なのだと漠然とした納得を繰り返して誤魔化しながら楽しんでいたのです。

そんなある時、《注文の多い料理店》の序文の中にこのような言葉を見つけたのです。

 

(前略)

これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。

ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。

ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。

(後略)

 

なんと、宮沢賢治は本人でさえ自分の言葉を「わからない」と語っていたのです。

それを知り、宮沢賢治の言葉は、読み解いて欲しい真意が練られたものではなく、感覚的なものを頼りにして出てきた、彼の感性の突発的な露出であったのか!と、はっとしました。

 

これまでの私はというと、先人の研究や解釈を知り、自分の中に落とし込むことで、自分の解釈の裏付けをしたり、または他者の解釈を勉強することによって作品を理解しようとするところがありました。これはアカデミックな学びの場では当然求められることであり、疑う余地のない学び方の一つです。

しかし私にとってその姿勢は、自身の知的好奇心の赴く学び方である一方で、自身の読み解き方に対しての自信の無さの裏返しでもありました。

この、「分からなくても良い、自分だって分からない」という作家自身の創作物への態度は、自らの感性のよるところで解釈して、何も悪いことはないのだと、自分由来の感性を初めて肯定されたような、まさに宮沢賢治の懐の深さ、ないしは慈悲の精神、才ある人の包容力に包まれたあたたかな気持ちになったのです。

 

私のここでの経験は、学校の国語教育の中での躓きと似ています。

正解をこの中から選ばなければいけないというのに、自分の解釈と違う選択肢しか無い時がある。

そんな時は、自分の感性が否定されたかのような気持ちになったり、自信をなくしてしまう危険を孕んでいると思います。

文学に限らず、絵画でも音楽でも、多くの人に良いとされている作品だけでなく、もっと思うままに作品を愛でていく方が芸術に触れる本質的な楽しみ方なのだと思い出させてくれたのです。

 

また、宮沢賢治の有名な詩《春と修羅》において、最初に読んだときはこのタイトルの対置的な意味も、詩の内容もあまり理解できませんでした。

ある時、宮沢賢治の作品と仏道(主に修羅道)の関係性や、彼の宗教観を知り、この「春と修羅」は二つの異なるポジティブとネガティブな単語のが二項対立的な意味合いで語られているのではなくて、善悪の概念を捨てて、あるがままをそのまま受け入れるという思想から出た作品だと知った時、これは宮沢賢治作品の根底に流れるテーマなのだと理解できたのです。

人は必ず過ちを犯し、怒りや憎しみなどの負の感情も抱く。けれど、それが悪であるから排除するというのではなくて、そうした感情を持ち合わせているのが人間であり、それをも認める。仏教徒であった賢治のこうした慈悲精神が、今回取り組んでいる作品《注文の多い料理店》においては、動物を家畜化していのちあるものを尊ばない紳士達に対する慈悲を感じる結末(山猫には食べられずに町へ帰れる)へと繋がっているのだと感じます。

ただ、この結末が、伝えたい真意をぼやかして曖昧模糊とさせてしまっているとも言えますが、私には宮沢賢治が、「ここまで語れば、もう西洋文明に染まった人間たちでも、自分自身でもどうか気づくことができるでしょう?」という期待さえ見え隠れしているようにも思えます。

 

宮沢賢治はまた、人というものを“現象”として捉えていたそうです。つまり、1人の人間として独立した生命があるという普通の考えではなく、この世界に現象として存在しているいのちの明滅であり、宇宙の分子の中の一つと捉えて、自己と世界を分離したり乖離しないような考え方で世界を見ていたということです。

こんな広い視点、なかなか常人には持てません。同時代に生きていた他の作家でも、このような境地の人はあまりいなかったと思います。

だからこそ、宮沢賢治の童話作品は、人間主体ではなく、山や空、星や風といった万物や、小さないのち達(動物達)が主体となって、小さないのちの裏側により大きな生命体のうねりを感じさせるような豊かな作品となっていて、今や長い地球の歴史の中のたった短い時間で破壊の文明を築き上げてしまった我々人間に対し、ことに未だに文明進化による地球破壊に突き進む人間に対して、時を経るごとに作品の真価が顕となり、突き刺さってくるのだと感じます。

 

そんなことで、私にとって宮沢賢治とは、ほんのりと近くにいて、時々いろんなものの本質を教えてくれる師のような存在の作家なのです。

 

小玉友里花

オペラ《注文の多い料理店》

皆様こんにちは!

少しずつ春の足音が聴こえたかと思えば、一転して大寒波とも言える雪がしんしんと降ったり、体も心も振り回せる今日この頃ですね。

 

このブログを書いている前日に、新しいオペラの稽古初日を迎えました。そのオペラとは、こちら!

 

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私にとっては初めての日本語オペラで、宮沢賢治の名作《注文の多い料理店》がオペラ作品になったとても可愛い作品です。

オペラ歌手である野間愛さんが主催する「オペラのまど」の企画として、近年歌曲作曲で飛ぶ鳥を落とす勢いの前田佳世子さんが作曲された作品です。今回は再演ということで、初回からさらに手を加えられたとのことです。

キャストの皆さんは若手の実力派揃いで、ここに加えていただけた事がとても光栄です。私の役は「白い犬Y」と「コロスB」という二役です。

なんと、人外の「犬」役。私の活動を見ていて下さった方にはお察し頂けると思うのですが、これまでに演じてきた役は基本的に姫だったり夫人だったり、淑女としての振る舞いを求められるものばかりだったのですが、初めて、自分のヤンチャな部分を表に出す時が来た気がします。笑

そして、もう一つの「コロスB」というのは原作には登場しないとっても面白い役で、登場人物でありながら、物語の読み手として、いわば案内人のような役割も担っているキャラクターです。

新しい役柄ですが、やり甲斐のある役を頂けて改めて感謝しています。

 

そして、先ほども言ったように、昨日が稽古初日だったのですが、もうとっても凄いことになりそうです!!

このオペラの企画は、歌手にとっても有意義な「日本語歌唱技術向上プログラム」という企画が並行して行われており、

 

バリトン歌手の小森輝彦さんによる歌唱発音指導

・指揮者の濱田芳通さんによるメロディーメイキング指導

・演出家の岩田達宗さんによる歌唱のための身体指導

が用意されています。

 

稽古の中でそれらを深掘りしながら、歌手がそれぞれに今の歌唱よりもより成長していけるような企画となっていて、初回稽古の小森さんの講義は頭フル回転の楽しい時間でした。何より、感覚的にやっている事ややるべき事を、細かに言語化することで、より解像度の高い技術へとブラッシュアップしていけるような指摘をして頂き、驚きと感動が5分おきくらいにやってくるようなお稽古でした。

周りの方々からも影響を受けて、私も今よりぐんとレベルアップした姿を皆様にお見せできると良いなと思っています。

 

そのような豪華な企画ですので、舞台に向けての皆さんの熱量もあって活気のある現場です。きっと素敵な舞台になるので、是非是非劇場に足を運んでいただけましたら嬉しいです!

 

チケットに関しましては、私のSNSのDMあるいは、こちらのメールアドレス【kodamayurika_concert@yahoo.co.jp】の方にご用命ください。

 

次回は、宮沢賢治について、私の思いみたいなものを少しお話ししたいなと思っています。

では、また。

雲の上はいつも晴れ

 明けましておめでとうございます!

ブログの方での新年のご挨拶が遅くなってしまいました。

Instagramのアカウントでは、新年を祝う歌「一月一日(いちがついちじつ)」を歌ってみましたので、良ければ聴いてみてください。

https://www.instagram.com/reel/DEQzQFHz_BD/?igsh=MWlydWNvcHp0OTdxdA==

 

さて、私は新年の急な寒暖差にやられて、2週間ほど歌声を失っていました。

そのせいもあり、新年のお仕事も降板したり、譜読みが溜まってしまったりで、新年早々バタバタとした時間を過ごしていました。

体を壊して歌えない期間というのは、歌手にとっては無力感がたまらない期間で、メンタルヘルスもズーンと落ちてしまうので、ベストの過ごし方を模索していきたいです。

年齢的にはまだ後厄の年で、なぜか既に本厄の年より大変なことや不運な事が降りかかっているような気がします。

厄に負けたくないという気持ちと、きっと今の状況も時間が経てば良い未来が待っているから、その時のために少しでも前に進めるように行動しておきたい気持ちもこめて、今年の抱負をこの記事にしたためておこうかなと思います。

 

2025年 わたしの抱負

①声を聴いて頂く機会を増やす

②ブログ・SNSを継続的に発信する

③生徒さんとの交流の時間を増やす

④新しい事にチャレンジする時、ポジティブ思考を心がける

⑤自分のレパートリーの学び直しをする

 

①「声を聴いて頂く機会を増やす」は、今年はもっと録音を含め、いろんな形で歌を耳にして貰う機会を増やせたら良いなと思っています。なにより、個人的に知ってもらいたい名曲のストックが沢山あって、そうした曲を聴いて・歌ってもらうのにも自分が演奏して、少しでも演奏機会が増えれば嬉しいなと思っています。

演奏されない=良い曲じゃないというのは間違いで、王道の曲を演奏する・聴くというのが安定した音楽の供給かのようにスタンダードになっているだけで、もっと演奏されるべきと思う曲は実はまだまだ眠っているのです。

② 「ブログ・SNSを継続的に発信する」は、無精者の自分に喝を!という気持ちで、ワクワク出来るようなことを見つけても自分の中に仕舞い込んでいるので、今年はもっとシェアしていきたいです。

 ③「生徒さんとの交流の時間を増やす」はレッスンだけではなく、対話の中でも成長を導けるような、寄り添えるレッスンがもっと出来たらなと思っての目標です。

次の ④「新しい事にチャレンジする時、ポジティブ思考を心がける」は、私にとって結構な難関で、石橋を叩いて叩いて渡るタイプなので、どうしてもネガティブ思考が顔を出してくるので、なるべくワクワクした気持ちを見つめて、臆せず行動に起こせるようになりたいです。

⑤「自分のレパートリーの学び直しをする」は今年の最初のミッションです。

これまで歌った曲やレパートリーで今もちゃんと歌えるものはどれだけあるだろうと思った時、意外と歌うのに勇気がいる曲も多かったので、これは真面目に学び直そう!と思ったので実行してみたいと思います。お聞かせ出来る形になったらまたご報告します!

 

やりたい事や歌のことについてなんでもアウトプットしていくノートを新しく卸しました!

カラフルでポップなRollbahnのノートです。

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昨年から、バレットジャーナルというノート術を行っていて、自分に合っていたのか結構楽しくできたので、今年もノートをカスタムしながら楽しみます♫

 

次回は、出演情報のお知らせもあります♩

ご興味のある方がいましたら、楽しみにしててくださいね!

 

それでは、また。

満ちるクリスマス

メリー・クリスマス!

今年のクリスマスは仕事もプライベートも、クリスマスのイベントが盛りだくさんで頭の中はクリスマスソングが飽和状態でした。

ということで、振り返りも含めて、この記事でもクリスマスに浸っていこうと思います。

 

前回の記事でご紹介した銀座王子ホールでのクリスマスコンサートですが、満席のお客様と、素晴らしい共演者の皆様と共に作り上げた時間と空間、そして音楽で無事に幕を閉じました。

 

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加藤先生の吸引力のあるピアノ伴奏に乗せて、山口絢さんの艶のあるヴァイオリンと佐藤晴真さんの豊かなチェロの音色と一緒にアンサンブルを奏でるとっても贅沢な時間でした。

美しいソロパートも歌わせていただき、王子ホールの響きで歌える幸せを堪能しました!

 

この本番の数日後は、お誘いをうけて、渋谷シアターオーブにて「ブロードウェイ クリスマス*ワンダーランド」というコンサートを聴きに行ってきました。

このコンサートはとにかく、クリスマスソングでお腹いっぱいになるボリューミーなコンサートでした!上演時間はひたすらにクリスマスソング。圧巻のパフォーマンスの連続でした!!

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若手ブロードウェイ歌手の素晴らしい歌声を堪能して、満足感のあるクリスマス気分に浸りながら、コンサートの後は渋谷から恵比寿まで歩き、恵比寿のクリスマスマーケットを少し楽しんで帰宅しました🎄

 

(ちょっと余談です。)

先週食べたこのマルゲリータピザがとっても美味しくて思い出に残っています。

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池袋のPIZZA BORSAさん。クリスマスカラーなのでつい。余談でした。

 

そして、25日クリスマス当日の今日は、ハルモニア・アンサンブルでまたクリスマスソングをたくさん歌ってきました。

私たち単独の演奏と、都立総合芸術高校の生徒の皆さんとのコラボステージの二本立ての盛りだくさんコンサート♪

少人数編成のハルモニアはほぼ1人ひとパートを担当しているので、いつもながら緊張感のある演奏でした。

今回はベン・パリーBen Parryさんという方が編曲したJingle Bellsの曲が特に難しくて、でも1番のお気に入りアレンジでした。変拍子と転調のオンパレード、とっても楽しかったです。

 

女性メンバーで一枚。ドレスはクリスマスカラーで揃えてみました。

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後半の合同演奏は生徒たちが主体となって、歌だけでなくMCや体と楽器を使ったパフォーマンスをしながら、伸び伸びとした合唱を披露しました。真摯にコンサートを作り上げる生徒達の様子を見て、わたしは歌いながら感動をしていました。こうして音楽家が育っていくのだな、そして、これからの明るい未来が開かれた子供達を見ているのは幸せなクリスマスだなと。しみじみ思うのでした。

 

今年のクリスマスシーズンは濃厚で楽しい時間の連続でした。今年も恵まれた一年となり、関わってくださった全ての方に感謝をしています。来年も素晴らしい実りある一年になりますよう、引き続き直向きに、精進して行こうと思います。

 

どうぞ今後とも、よろしくお願い致します。

それでは、みなさま良いお年をお迎えくださいね。

 

小玉友里花

江戸道中に思い馳せ

今年も残りあと少し。

そして、一年でいちばんキラキラ輝く季節「クリスマス」の到来ですね。美しいクリスマス飾りや、ワクワクするようなクリスマスソングが街中で聞こえてきて、お出かけするのも楽しい日々です。

そんなクリスマスは二つコンサートに出演致します。

 

一つは、もう残念ながらチケットが完売してしまったのですが、harmonia ensembleで何度か出演させて頂いているぶらっと銀座コンサートのシリーズで、12月11日に銀座王子ホールにて、加藤昌則先生の編曲したクリスマスソングメドレーをお届けするコンサートです。
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今お稽古中で、とにかく英語の歌詞が早口で大変苦戦していますが、飽きのこない楽しいメドレーで、本番がとっても楽しみです。

 

もう一つの本番は、クリスマス当日の12月25日に都立総合芸術高校にて、同じくharmonia ensembleと総合芸術高校の生徒によるクリスマスコンサートが開催されます。

こちらは入場無料で聴いて頂けます。

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ハルモニア単独ステージと、生徒との合同ステージがあり、どちらも聞きごたえのある作品ばかりです。

クリスマスの予定に是非こちらのコンサートをご検討ください♩

 

さて、プライベートの方に話は変わりまして、

少しずつ寒さが増してきましたが、例年に比べても暖かいような気がします。11月末にまた登山を楽しみました。

今回は東京都檜原村の浅間麓に登りました。山の麓は紅葉シーズン、山の上はやや葉が落ちてシーズンは過ぎているような印象でした。それでも緑は楽しめて目で自然を楽しめる良い時期でした。

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最初に払沢の滝を見て、まずマイナスイオンを浴び、その後入山。

登って降りるまで合計5時間程の山で、程よい運動量の山だと思います。普段運動不足の私は流石に疲労感がそれなりにありましたが、道中はご年配の方の姿も見かけました。

江戸時代には交易や市民の大切な生活道として使われていた道だそうで、当然舗装されていない道をそのまま残しているコースですので、色々と想像も膨らみました。

昔は草履などでこの山を歩いていたのかぁと想像すると、本当に昔の人は凄いとただただ感心しました。足元から冷えも来たでしょうし、急な角度の道もあります。足を滑らせれば真っ逆様な細くて危ない道もありましたから、命懸けの場面もあったのではと想像します。 商人などはたくさんの物を担いで歩いたりしていたのでしょうから、今よりもきっと大変な道のりです。

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天気にも恵まれ、山頂で持参した昼食をゆっくり楽しんで下山。下りは前回登った赤城山よりはなだらかだったので、膝を痛めることもなくスムーズに下山出来ました。

下山後のお楽しみはやはりお風呂!

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麓にある木庵という民泊で、見晴らしの良いお風呂を楽しみました。貸切だったのでパシャリ。

それから、こちらでちょっとした食事を頂いたのですが、こちらの刺身こんにゃくが、私の知っている刺身こんにゃくでは無い、、と衝撃を受けるほど美味しくて感動しました!ツヤツヤのプルプル。水のようにふわっ!つるっ!と喉を通ってすぐなくなりました。

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他にも何を食べてもおいしくて、壁にはたくさんのテレビ取材の写真やサインが並び、お隣のお客さんも「美味しかったです」と3回くらい伝えていて私も思わずうんうんと頷いてしまいました。

こちらにふらりと立ち寄っただけで、体の疲れも癒え、お腹も満たされました。

 

まだまだ体力のない初心者なので低山しか登れませんが、こうして時折り自然との時間を大切にしながら、これからも健康に過ごして行きたいなと思います。

 

2024年、残すところわずかな日々ですが、私なりに楽しんで過ごしていきます。

このブログを読んでくださっている皆さんも、体に気をつけて、豊かな日々をお過ごしくださいね。

 

それでは、また。