Instagram・Facebook・X等各プラットホームでご案内させていただいていました新作オペラ《人間の歌》ですが、いよいよ本番が迫り、稽古も気づけばあれよあれよという間に終盤に差し掛かってきました。


(稽古風景写真をプチ公開♩)
今日は、このオペラ《人間の歌》について少しお話ししたいと思います。
新作ということもあり、オペラの内容を予習ができない分、私自身の頭の整理のためのブログが一助となればと思って執筆しています。
いやいや、ネタバレなんて嫌!という方は、どうぞここでUターンしていただき、劇場でお会い致しましょう!観終わったらぜひ読みにいらしてください♩
あれこれを語る前に、先にざっくりとしたあらすじをお伝えすると、おおよそこのような感じです。
文明が滅び、汚染された海と廃墟だけが残る世界。不思議な少年Üは、捨てられていたアンドロイドを目覚めさせ、「人間とは何か」を知るため、ともに旅に出る。道中、二人は奪うことで生きる野盗と出会い、彼に教えられた共同体「楽園」へ向かう。Üが汚染された水を浄化すると、人々はその力を奇跡として崇め始める。一方、野盗は、かつて自らが傷つけたファーザーの娘に許しを求め、彼女のために集めた機械の身体を差し出す。しかし、人として生きることを願う娘はそれを拒み、逆上した野盗は再び彼女を傷つけてしまう。楽園では、支配者ファーザーの教えが狂信へと変わり、人々は身体や命まで捧げようとする。Üはその答えを拒み、瀕死の野盗を救い出す。やがて初めて涙を流したÜに、ドロイドは人間の残した歌を聴かせる――「なみだは、にんげんのつくることのできる、一ばんちいさな海です」と。
ストーリーを考えられたのは詩家・鶏 kei さんです。→鶏(Kei)|note
この「オペラのまど」のプロダクションがオペラのストーリーを募集し、このような奥深くて素敵な物語が選ばれたとのことです。
そして、オペラの台本化は角 直之さんが手がけられました。
そこへさらに前田佳世子先生の音楽と、演出・岩田達宗さん、指揮・濱田芳通さん、豊かな演者たちと素晴らしいスタッフの方が少数精鋭で揃い、今日まで辿りつきました。
そう多くないオペラ経験ではありますが、そんな中でも、0から1を生み出していくような形で作られるオペラに関わらせていただけるなんて、なかなか体験出来ることではありませんし、役をいただけたことは光栄なことだと感じています。
「娘」という役から見る新作オペラ《人間の歌》について
さて、私が演じる「娘」は、共同体「楽園」を統率するファーザー(大澤 恒夫さん)の娘です。父の強い支配下に置かれ、自分の身体や人生のあり方を自分で決めることができません。
「楽園」では、「与えよ、さらば与えられん」という教えが繰り返し歌われます。しかし、そこでの「与えること」は、やがて相手の意思を無視した犠牲や支配へと変わっていきます。
一見すると助け合いのための教えのようですが、実際のところは、「与えなければ生きる資格はない」という強迫的な教えが「楽園」の根幹に存在しています。
「娘」もまた、その支配に飲まれ、自己決定権を奪われて生きている1人として存在しています。身体の一部を差し出して、機械化している身体を持ち、教団のシンボルとして存在しているのです。おそらくファーザーからすると、「自分の教えの正しさを示す道具」であり、「共同体の苦難を体現するシンボルとしての存在」あるいは、「体を失っても救われるということを示す存在」等なのだろうと思います。
余談ですが、私がこの「娘」役を頂いて台本を読んだ際、2024年に出版された小説《ここはすべての夜明けまえ》(間宮改衣著)を思い出しました。この小説では、父親の偏愛を受ける主人公は、父親の意思で不死の身になる融合手術(体の大部分を機械化させる)を受けて、人ではない何者かになります。性格であったり、身の上は違いますが、お読みになったことがある方なら、今回の「娘」の未来的な設定であったり身体的なイメージがつきやすくなるかと思います。(正直、この公演に関わらず、読んだことがない方も、ものすごくおすすめの小説なので、是非読んでもらいたいなと布教の意味で思います。それくらい私の中で近年読んだベスト本です。)
話を戻します。
彼女が歌うアリアでは、「この手、この頬、この涙。どこまでが私なの?」や「この眼、この胸、この体。どこからが私ではないの?」という台詞が出てきます。これは身体の一部が機械であることを意味する言葉のみならず、自分の身体でありながら、自分の意思では守れない。自分の人生でありながら、自分で選ぶことができない。どこまでが自分自身で、どこからが父や共同体によって奪われているのか。その切実な問いなのだと思います。
そんな娘が、激しい感情をぶつけることのできる唯一の相手が、かつて愛した野盗(小森輝彦さん)です。
野盗は、過去に娘を深く傷つけた相手でありながら、彼女が今も愛情を捨てきれずにいる相手でもあります。父や共同体の人々には言えない怒りや悲しみを、娘は野盗の前で初めて声にして言える相手です。
野盗は娘のために、長い年月をかけて機械の部品を集めてきましたが、娘が望んだものではありませんでした。彼は娘を思っているつもりで、娘自身の言葉を聞いてはいません。自分の愛や後悔を「娘のため」という形で差し出しているだけです。娘が求めていたのは、新しい身体ではなく、今と違う未来や希望といった別の次元のものでした。
自分の苦しみを理解してほしい。自分の意思を、一人の人間の言葉として受け止めてほしい。その願いが届かないと知ったとき、娘は野盗を「人でなし」と激しく罵ります。
鬼才・岩田達宗さんの演出では、この言葉は、ただ怒りに任せて放たれるものではありません。娘は自分の感情をぶつけて野盗を激昂させることで自らの命を破滅へと向かわせます。父の支配から逃れる道を失い、自分で命を終えることもできない娘は、野盗に自分の最後を託そうとするのです。
それは暴力を望んでいるということではなく、生き方を選べなかった娘が、せめて「愛する人の手によって死ぬ」という終わり方だけでも自分で選ぼうとする、あまりにも悲しい自己決定だと私は思います。
野盗もまた娘を愛しながら、娘の拒絶を受け止めることができません。二人は互いを思っているのに、互いの苦しみを理解できないまま傷つけ合うのです。
自分の身体を自分のものとして生きたい。
何を受け入れ、何を拒むのかを自分で決めたい。
誰かの所有物やシンボルとしての存在ではなく、一人の人間として扱われたい。
私はこの「娘」を、ただ傷つけられる悲劇的な人物としてではなく、最後まで自分の感情を叫び、自分の尊厳を取り戻そうとした女性として演じたいと思っています。
Üとドロイドが見つけた「人間らしさ」とは
さて、この物語での重要な存在は、そんな「娘」を含む「人間」たちを知りたいとやってくるÜと、人間が作ったアンドロイドのドロイドの2人です。
台本を頂いた時から、自分の役以上にとりわけこの役柄達はいったいどういう存在なのだろう、ととても興味をそそられていました。
稽古が進む中で、私なりに理解できたこの二者についてもお話ししたいと思います。
「人間とは何か」を知ろうと旅をするÜと、その旅に付き添うドロイド。二人が最初に深く関わる人間は、奪うことでしか生きられない野盗でした。
野盗は人間を「おぞましき獣」と語り、ドロイドは「美しき生き物」だと信じています。相反した人間に対する心象に、Üはまだ人間がどのような存在かを理解できません。
その後、二人は「楽園」を訪れて、求められるままに水を浄化すると、人々はその力を"奇跡”と崇めながらも、「水を生み出す手段」としてÜの存在を捉え、Üの体がどうなろうとも気にもせずに、渇望のままに狂喜乱舞します。
そして先ほど語った娘と野盗の対峙の場面の末、娘を再び傷つけた野盗が共同体の教義における正しさの名のもとに「楽園」の人々の手によって犠牲となり、Üは自らの力を使い果たしてまでも野盗を助けます。
終幕では、「涙」が人間か否かの境界を越えて受け継がれていきます。
助けられた野盗は「畜生」と自らを憎みながらも涙を流し、人間ではないÜもまた涙を知ります。さらに機械であるドロイドさえも涙し、最後には人間の子供が、主人を失ったことで活動を終え、消えゆくドロイドを悼み弔います。
この作品における「人間らしさ」は、正しく善良に生きるという単純なことだけではありません。
オペラの台本を書かれた角 直之さんはこのように仰っています。
この物語は「人間」をひとつの完成された姿として描くのではなく、揺らぎ続ける存在として見つめています 。誰かを拒絶しながら、誰かを求める。何かを奪いながら、何かを与えようとする。その不完全さの中に、人間が人間である理由が存在するように思います 。
私たちはつい、「人間」という言葉において、理想的な行いを"人間らしさ"と捉えたり、それだけでなく、身体の形や生物学的な分類によって人間を定義して捉えようとします。しかし、《人間の歌》が問いかけるのは、そうした理想的な人間像や分類としての「人間」ではなく、他者との関わりの中に現れる「人間らしさ」なのだと思います。
作中では、人間の姿をした者たちが、他者を利用し、犠牲を強い、傷つけていきます。その一方で、生物としては人間ではないÜや、機械として造られたドロイドが、誰かを思い、その痛みに寄り添おうとします。
ドロイドは危険からÜを守り、力を使いすぎるÜを案じ、集団の狂乱を前に「こんなことは間違っています」と声を上げます。そしてÜもまた、「その答えは間違っている」と言い切り、人々が奇跡として崇める水を自らの手で流します。
人間であるかどうかは、どのような身体を持ち、何に分類される存在かだけでは決まらず、他者とどう向き合い、何を選び、どのように行動するのか。私は、人間ではない二人の姿を通して、かえって「人間」の本質が照らし出されていくところに、この物語の深さがあるように感じています。
物語の終盤では、Üとドロイドは、「人間らしさ」や「涙」の意味を、言葉や知識ではなく、自らの体験を通して理解します。そしてその末に、二人はこの世界から消えていくのです。
二人の存在は消えていくけれど、二人の間に生まれた思いは、涙となり、歌となり、残された者へと、あるいは記憶へと受け渡されていき幕となります。
「なみだは
にんげんのつくることのできる
一ばんちいさな海です」
この寺山修司さんの世にも美しい詩が、ドロイド(澤原 行正さん)とÜ(石田 滉さん)の美しい歌声で紡がれる時、二人が探し続けた「人間とは何か」という問いへの答えが、舞台をご覧になる皆様の中にも、静かに浮かび上がるのではないかと期待しています。
是非、この《人間の歌》を目撃しにいらしてください。新しく紡がれた物語と音楽と、そこにかける舞台人達の気骨、情熱、エネルギーを間近に体感して頂けますと嬉しいです。
劇場でお待ちしております。
小玉友里花
















